公開: 2024年2月2日
更新: 2024年2月3日
先進国フランスにおける義務教育制度をモデルとして制定された学制は、国民の義務として、8年間の学校での就学を定めていました。しかし、当時の日本社会の経済状況は、各家庭の子供たちに8年間の学校教育に就学を可能にする水準になく、就学率が低い状態が続きました。学制が定められたにも拘らず、日本社会の義務教育は、全く実践されなかったのです。
この問題に直面した明治政府は、1977年に「教育令」を発し、庶民が受け入れやすいように、就業期間を16か月に短縮しました。さらに、1880年、その教育令を改正した「改正教育令」を発し、教育期間を3年間から8年間とて、最低で、3年間のうちの16か月の就学を義務付けました。さらに、この「改正教育令」からは、「修身」の科目を導入しました。そして、小学校建設・設置に対して、財政がひっ迫していた国家の補助金支出を廃止しました。
1877年に西郷隆盛を盟主として九州で巻き起こされた旧武士を中心とした反乱、「西南戦争」での戦費の捻出に苦労していた明治政府は、財政の正常化を目的として、小学校の建設のための資金投入を中止し、都県に義務教育制度の実施を移管する方針に変更しました。各都県は、私立学校の設立を認め、その教員として旧士族や寺子屋の人材を活用することも許しました。この緩和策によって、日本各地への小学校教育制度の導入は、少しずつ、進み出し始めました。